12月5日オリヴィエ・ギャルドンを知る; 12月6日バドゥラ=スコダ@Salle Gaveau

12月5日オリヴィエ・ギャルドンを知る; 12月6日バドゥラ=スコダ@Salle Gaveau

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 その日、沖縄在住の世界的ピアニスト、岩崎セツ子氏から一通の電子メールが届いた。

「ギャルドン先生にメールしなさい。私の方からも紹介しておきます」と。

 私はこのメッセージの重みを全く理解していなかった。私は不遜にもこの時初めて彼の名前、そしてこのギャルドン氏がフランス屈指のピアニスト、ピアノ教師であり、彼に習うことを切望する音楽留学生が世界中から大挙してパリを目指す程の音楽家であることを知った。しばしば音楽留学生の友人達との会話の中で、「ギャルドン先生に習っている」といった時の周囲から驚かれる様子から、次第に彼に習う機会の貴重さ、生徒としての責任の重さを実感するようになっていった。とにもかくにも、これを機に、彼が私のピアノの師となった。

 私はそれまで多くの方々に応援、サポートを頂き、ピアノを続けてきたが、その中でもやはり大御所ピアニストからのサポートは大きな転機を生むことが多かった。パリで長年活躍し、沖縄県立芸術大学が設立された際、教授として迎えられ、長年後進の指導にあたっていた高名なピアニスト、岩崎セツ子氏もその一人であった。 

 私がまだ幼少の頃、岩崎セツ子という世界的ピアニストが沖縄に赴任したことは、沖縄社会にそれなりのインパクトがあったようである。クラシック音楽とは全く無縁であった両親に連れられて聴きに行った唯一の演奏会が、岩崎セツ子氏とアンサンブル金沢による演奏会であった。当時ピアノや音楽に全く興味がなかった私は、ただオーケストラを後ろに従えた女王の様にピアノに向かう岩崎氏の姿と、そのピアノがいかに高価なものであったかを両親から聞かされたことのみ覚えている。生涯初めての演奏会で見た岩崎氏と、その後ピアノを始めたことにより、十数年の時を経て面識をもつようになるとは、人の縁とは予想のできないものだ。2004年の初春、沖縄県立芸術大学の教授室に招待され、岩崎氏と彼女の生徒達を前にピアノを弾くという形で再会を果たした。
 その場をアレンジするために尽力頂いたのは、小学生の頃初めて通ったピアノ教室を主宰していた宮城氏であり、アメリカで大ヒットした映画「ベストキッド(通称カラテキッド)」に登場する沖縄出身の空手家宮城氏のモデルとなった、琉球政府、沖縄県を代表する空手家、実業家、宮城嗣吉氏の義娘であった。嗣吉氏亡き後、首里の宮城邸を改装した料亭「御庭(うなー)」で、岩崎氏や沖縄各界の方々と語り合った思い出は生涯忘れないだろう。岩崎氏に直接指導をうけることはなかったが、その後彼女の門下生による演奏会に出演させて頂くなど、様々な形で私のピアノを応援し、ご支援を頂いた。

 6日、キュリー研では、希望通り、DNAに結合して壊れたDNAの暗号を修復する蛋白質が、どのようにDNAに作用するか、という生物物理学のテーマに取り組んでいた。特にこれらの蛋白質がDNAに結合した際に、DNAを物理的にねじることは、間接的には予測されていたが、直接それを見た者、証明した者はおらず、そのねじり運動を観測することが私の研究における最大の課題であった。日中は実験、または先行論文調査、同僚達との議論が主な仕事であり、実験は地下の実験室、議論は主に最上階にあったこじんまりとしたカフェで行われた。そのカフェの壁には白板があり、多くの数式や議論の跡で埋め尽くされており、この中から様々なアイディアが生み出されてきたことを思うと、長年にわたるキュリー研の伝統の重みを感じることができた。私はこの一見ただの古い建物の狭い一室にコーヒーメーカーが置かれてあるだけの空間の、知的創造の場としての雰囲気がとても好きになった。アイディアや実験がうまくいかなかった時など、また研究について悩み事があった時などはそのカフェに足を運んだ。
 仕事を終えた晩、サル・ガヴォーでウィーンの巨匠、パウル・バドゥラ=スコダのシューベルトリサイタル。お年を召していたので指が回っていないところもあったが、ウィーンフィルを彷彿させる高級家具のような品のある音で、私が東京で初めて師事したピアニスト(彼女はウィーン国立音楽大学でヨゼフ・ディヒラーに師事した)がいつも言っていた艶のある音というのはこういうものかと、先生がウィーンで学んできたこのピアノの音を私に伝えたかったのかと思うと、長年追い求めていた芸術作品に会えたような感動を覚えた。