2008年11月24日湯浅年子シンポジウム

2008年11月24日湯浅年子シンポジウム

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 本人初の女性博士の弟子がキュリー研にいたという噂は以前からちらほら聞いたことがあった。正確にはフレデリック・ジョリオ=キュリー博士の弟子で、所属はコレジュ・ド・フランス。キュリー研究所には入所はかなわなかったそうである。今年は日仏交流150年。ENSで記念行事に湯浅年子シンポジウムを開催するというポスターを見たので興味本位で参加してみた。日本人初女性博士は保井先生(生物学)で、その現お茶大での生徒が湯浅先生(物理学)だったようだ。講演にはジョリオ=キュリー夫妻の娘でいらっしゃるマダム・ランジュヴァン=ジョリオ先生(キュリー夫人女系3代目孫)もいらしていた。
 ここ最近、この機会にと湯浅先生の著書を購入して読んでいると、50年前も変わらないパリやパリ市民の様子、特にキュリー研の現在も同じ建物で繰り広げられる研究者達の営みの変わらないことに、時間的な距離を感じず、とても親近感を感じた。「研究がしたいという発言がなによりも権威をもつ」や、「自由な環境に魂が開放される」など、自分が感激、共感する、日本では体験することのできない感覚が今も昔も、ここにはあった。
 「パリ随想」などは特に研究の話を書いているわけではないので、近年パリに住んだことのある人なら誰でも共感をもって読むことができると思う。ロダン美術館の話や、ブローニュの森のバガテル庭園(ちょうど先週末訪れたばかり)にいった時の感想など、長年変わらないパリの魅力を確認することができる。湯浅先生は芸術音楽にもご興味があり、仕事帰りにシャンゼリゼ劇場でジャック・ティボーの演奏会にいかれた時の話が書かれてあったが、私は先日ティボーの伴奏をしていたチッコリーニの演奏会に行ってきた。湯浅先生も同じような生活をしていたようだ。
 フランス語の詩とともに和歌も詠み、自著には一緒に絵まで添えられている。先生の日記からはその多才ぶりが伺われる。教養が深く多才な素質は、研究者の仕事とは相反することが多く、それに葛藤し続けた人生が垣間見られる。それでもやはり、当時はまだまだ精神的に貴族的で優雅だった研究業界の文化と、現在我々の国際的な競争にさらされ、ビジネス化しているそれとの違いは大きく、古きよき時代というのが実際にあった事を再確認させられた。
 ピエール・キュリーの言葉「たとえ魂の抜けた体になってしまっても、研究を続けなければならない」を湯浅先生はとても好きだったそうだ。それに近年ノーベル物理学賞をもらった某博士の言葉「研究とは答えを求めて悪魔のように働くことだ」を組み合わせると、「たとえ魂の抜けた体になってしまっても、答えを求めて悪魔のように働き続けなければならない」になる。果たして現在の研究者のうちどれだけが、彼らの言葉を遵守しているだろうか。
 数年後、ジャック・モノー研究所を訪れた際、数十年来パリにご在住の小桧山先生から、湯浅先生のお話を少しだけ聞くことができた。