2009年9月25日キュリー研究所最後の出勤

2009年9月25日キュリー研究所最後の出勤

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Giovanni_and_Arata_2009_ジョバンニ_新田英之
2回の勤務で合計2年半、フランスに永住しない日本人研究者としてはかなり長い期間滞在したことになる。素晴らしい研究所、研究室、同僚達、プライベートの友達に恵まれて居心地が良すぎたこと、二度と出会えないかもしれない成果に遭遇したことが2度の滞在や長居の要因だったようだ。まだ残りたいし、まだ残らないか誘われ、残ることも可能だったが、滞在後半は次第にグループ内での自分の役割や貢献が減ってきた。一仕事を終えて、私がここでできる最大の成果を挙げるという使命を果たし、それ以上の次にやるべき仕事はここにはないので、やはりここで去らなければならない。
 最後の出勤日はグループメンバーで最後のミーティングと、この研究を引き継ぐ新しい大学院生スコット君の博士研究の議論をし、同僚たちとENS(高等師範学校パリ校)での最後の昼食をとった。午後はあまり仕事を入れず、あいさつ回りでお世話になった方々に琉球紅型を贈り、夕方皆がpot(飲み会)をしてくれた。去ったはずの昔の同僚達が何人か、「たまたまパリに用があったから来ただけさ」と、さりげなく居合わせてくれて、とても感激した。ジョバンニが、論文が採択された時のために買っておいてくれたワインをあけた。大ボス、ジャン=ルイ(ヴィオヴィ先生)に「いつまでキュリーに居るのか、あなた(tu)はリタイアしなさそうだが」と問うと「私はリタイアしない」と即答された。この科学者も定年など関係なく、ジェフスキ氏のように、生涯科学研究に邁進し続けるのだろう。あっぱれでかっこいい生き様である。
何十年経ってもパリは変わらず、キュリー研もこの部屋も何も変わらないだろうが、皆いなくなっているのだろう。キュリー夫妻に始まり我々に到る、その繰り返しでキュリー研の歴史が積み重なっていく。皆との別れを惜しみながら、7時には研究所を後にした。去りながら研究所を振り返ると旧館(キュリー夫人が建て、最後までいらした最初の建物)の後ろから閃光のような夕日がさしていて、まるで後光がさしているようだった。成果を挙げた直後の栄光の瞬間と、それらが忘れられた後の長い寂しさと、ここまで命をかけてやりきった感。二度とここで勤務することはないということが、直感的に分かっていた。またここで同じように働くことはできるが、それが科学界にとっても私個人にとっても最良の選択肢でない限り、戻ってはいけないという人生の宿命が、なおさら寂しさと感慨深さを感じた。
 この研究所はやはりある意味特別な場所なのであろう。キュリー夫人・キュリー一家の頃からの引き続いている2館(現在の物理化学部門)では当時から常に数十人しか研究者がいない規模であるが、関係者によるノーベル賞受賞は6つにのぼる。一度目の滞在時には、ノーベル物理学賞を単独受賞したフランスの英雄P=G. ド・ジェンヌが向かいの部屋にいて、現在は我らがジャン=ルイ・ヴィオヴィが活躍している。科学研究が肉体労働・ビジネス・成果の収奪戦と化している現在でも、少数精鋭を貫いて学問・文化としての科学研究を守り抜こうとしている、おそらくほぼ唯一の場所かもしれない。その後ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学で働く機会もあったが、単にこれらの大学・研究機関に比べてキュリー研の物理化学部門の方が圧倒的に研究者のレベルが高いというだけではなく、価値観や文化が明らかに違う。それがいいかはともかくとして、知性・教養・貴族的な品格を併せ持つ超優秀な面々が小さな建物に押し込められたこの知的空間は、はやり他では実現しえないものであろう。湯浅年子先生も、「馬鹿を相手にすると馬鹿になる」と日記に書かれているが、天才を相手にしても、なかなか天才にはなれない。しかし、天才の振りまく粉を身にまぶし、自分のもてる知性のアンテナを最大限に活用すれば、その道は開ける可能性が出てくると私は思う。それが日常的に体験できる稀有な環境であったことは間違いない。
 何度上り下りしなければならないのかと嫌になっていた地下の実験室と地上階の居室をつなぐ階段も、イレーヌとフレデリック・ジョリオ=キュリーが人工放射性物質を発見した時に、キュリー夫人がポール・ランジュバンを呼び出して一緒に降りてきた階段だった。キュリー一家の伝記を読んでも、あの建物のどの部屋、どの辺りでの話しなのかがなんとなくわかる。彼らが仕事をしたその場所で、その環境を残しながら研究を続けることにこだわるヨーロッパ文化の賜物に因るところであり、当然キュリー一家の影響が強すぎるからでもある。その空間で働く体験をしたことは自分だけではないが、それらに共感し、自身の感性と感覚でとらえ、科学研究が芸術であったという時代の名残を、現代の研究者として垣間見た。湯浅先生は「科学者は頭で分析し、芸術家は神経で判断する」と述べられたが、少なくとも私個人の科学研究における要所要所での判断は、当然頭による分析が伴うが、最後は直感と感性(神経)で決定してきた。