2009年8月9日~21日モーツァルテウム音楽院@ザルツブルグ

2009年8月9日~21日モーツァルテウム音楽院@ザルツブルグ

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Arata_2009_ザルツブルグ_新田英之
 ザルツブルグを直訳すると塩の山。世界中から各界のセレブ達の集まるザルツブルグ音楽祭の期間中なので、市内には裕福な観光客が多く、市内を馬車が多く通るため、路上に巨大な落し物がよく転がっていた。ザルツブルグ在住の日本人が曰く、この時期は「馬糞の香る街ザルツブルグ」だそうだ。
 フランスで過ごす最後のバカンスシーズンであり、おそらく人生最後となる長期休暇で、私のピアノ学習の最後を締めくくることになると、前々から予想していた夏は、大指揮者カラヤンも指導したことで有名な、モーツァルテウム音楽院の講習会に参加した。この講習会は、おそらく大規模の講習会では、世界で最も権威があり、参加者のレベルも高い講習会である。世界中から音楽を学ぶ者が集まり、その多くの割合は、それぞれの講師によるオーディションでふるいにかけられ、初日で参加すら断られてしまうという大変厳しいものである。
 音楽院の、入ってすぐのホールに、講師の先生方の写真が展示してあった。いずれも名前を聞いたことがある著名な音楽家達ばかりで、彼らの顔写真をみてまわっていると、突然ギャルドン先生のドアップ写真があり、一瞬驚いた。よく考えれば、彼もここで違う週に教えているのだ。私は、おそらく人生最後のピアノの修行になるであろうこの夏の講師として、フランス人ピアニストで兼ねてから師事したいと思っていた、ガブリエル・タッキーノ氏のクラスに希望をだした。彼は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団や、カラヤン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団と若き日に共演を重ねるなど、輝かしい演奏歴をもつピアニストである一方、フランスを代表する作曲家、フランシス・プーランク唯一の弟子として知られ、作曲家本人から教わったプーランクの音楽や演奏法を後進に伝えることに情熱をもっていらした。二度に渡るフランス滞在中、私が最も力を入れた曲はプーランクの楽曲であったため、パリを去る前には是非とも作曲者直弟子のタッキーノ氏に本物のプーランクの音楽を学びたいと切望していた。
 初日、タッキーノ先生のクラスで生徒達が集まった。生徒にはモロッコ人、ギリシャ人と日本人がおり、後日韓国人が途中参加したそうだ。初日はオーディションのみで、レッスンがなかったので、ザルツブルグの街を歩き、モーツァルトの生家を見学し、晩は音楽院の練習室で練習した。カラヤンの家も、モーツァルトの家も、ドップラー効果で有名な科学者ドップラーの家も、中心広場とその周辺に集中してあり、芸術・文化・学問で名を成した彼らは皆貴族であったことが伺えた。庶民にとって、この時期観光の目玉の一つは、チケット入手が困難で入場することは一生無理だと思われるような演奏会場に入っていくお金持ち達や、裏で彼らお金持ちの専属運転手たちが高級車の列を作り、ご主人様を待っている風景を眺め、写真を取ることである。
 2日目からいよいよレッスンが始まった。ギャルドン先生然り、丁寧に、しかも本質を見抜いて的を得た指摘をしてくれるレッスンは、論理的思考と感性が見事に融合した知性のなせる技としか言いようがない。彼はお人柄もフレンドリーでかつ紳士的だった。タッキーノ先生は何かにつけて「僕はプーランクの唯一の弟子だけど」といって説明を始めた。自分がプーランク唯一の弟子であることを1日に一、二回は聞かされた。最後のコンサートでも、周りの生徒達にそれをいいたかったらしく、重々承知している私に向かって「何弾くの?プーランク?おお my teacher(英語)」という感じに。友達が東京で、タッキーノ先生のレッスンを受けた時、ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフの曲をレッスンに持っていっても「僕の先生のプーランクの指使いを教えてあげよう」といわれたそうだ。
 先生のプーランク自慢話のおかげもあり、レッスンの合間には音楽だけでなく、プーランクのお人柄や、先生とプーランプとの出会いや馴れ初めについて、色々な話を伺った。先生はカンヌ生まれで、当時プーランクが作曲に集中するため、カンヌのお気に入りのホテルに長期滞在することが多く、その機会にタッキーノ先生の先生であり、プーランクの友人、共演者でもあったピアニスト、ジャック・フェブリエ(Jacques Février)の紹介でプーランクと面識を持ち、以来、ヴィラディーミル・ホロヴィッツに紹介するなど援助を受け、公私共にわたり深い絆で結ばれたようである。
 このクラスに入るに際し、当然プーランクの楽曲を多く準備して臨んだ。プーランクの曲を聴いて頂く時は、プーランクの指使いや解釈など、プーランクのピアノ曲演奏に必要な秘儀の多くを、熱意をもって伝授して頂いた。このクラスを通じ、プーランクとタッキーノ先生から、曖昧さの大切さ、細かい事を気にせず、本質のみ重視する姿勢を強く学んだ。例えばあるレッスンで、同じクラスの日本人ピアニストの一人(彼女はミュンヘン音大で、ドイツ人最後の巨匠ピアニスト、ゲルハルト・オピッツの弟子で、ギャルドン先生に学ぶため、パリにも時折訪れていた)が、先生のプーランクのレコーディングを聴いて予習をしてきたらしく、先生が録音で楽譜と異なる音を弾いている箇所を一つ一つ、どちらが正しいか質問していったとき(それを私が一つ一つ辛抱強く通訳していた!)、諦めたように彼ら一流音楽家の何たるかを知りえるエピソードを話してくれた。
 先生は若いころから一貫して、プーランクの代表的ピアノ作品「トッカータ」を得意としていたが、始めに曲のある箇所を読み違え、間違った音で曲を覚えてしまい、そののち何度もその間違った音で「自分の曲の音をしらない」プーランクのレッスンをうけ、紹介してもらったかのホロウィッツの前でも間違った音で弾き、そのまま何十年も間違った音で演奏を続けていた。そんなある時、パリの国立高等音楽院で日本人の生徒がレッスンにこの曲を持ってきた時に初めて自分の譜読みのミスに気付き、当時プーランク全集のレコーディングをしていた英国のレコード会社EMIに、その箇所だけ差し替えてくれと電話をしたという逸話を話てくれた。つまり、超一流の巨匠達は、少なくとも彼ら同士の間では、あまり細かいことは気にしないようだ。プーランク本人が、自分の代表作の音を、一旦作曲した後は覚えていないことを考えると、少なくともタッキーノ先生のレコーディングにおいては、それで良いのだろう。彼のクラスで学び、レッスンを受けた結果、プーランクの解釈において彼の録音は、少なくとも表面上や細かい点においては、あまり参考にならないし、真似をする必要などないという結論に達した。一方で、プーランクの指使い、彼のペダル指定から読み取れる彼が望んでいた響き(bruit)と実際にピアニストが使うべきペダリングなど、唯一の弟子ならではの指導からは、プーランクが大切にしていた、先生が後世に伝えた彼の音楽のイメージが、徐々に私の中で湧き上がってきた。
 彼がいなくなれば、プーランク直伝の奏法は二度と学べなくなるであろう。本物のプーランクの音楽に少しでも近づきたければ、やはり彼にレッスンを受け、直接伝えてもらう以外ないだろう。アマチュアながら、その希少なほぼ最後の機会に、先生からプーランク音楽の指導を受け、プーランク音楽へのピアニストとしての向き合うべき姿勢、作曲者本人からの直伝の解釈や演奏法などを学べたことは、プロの道に進んだ者でもなかなか得る事ができないものだろう。
 ドイツ語圏でのクラスであったにも関わらず、先生はフランス語かイタリア語しか十分に話せなく、他の日本人生徒達がフランス語を解しなかったことから、レッスンの通訳を頼まれた。そのため、別の生徒さんの通訳をしながらも、先生のピアニズムや音楽について、更に濃密な教えをうけることができた。他に男性の生徒がいなかったこともあってか、幸いにも先生とより親密に接する機会が多く、絆を深めることができ、その後先生の来日公演の際は欠かさず顔を出す仲になった。
 先生の知っている数少ない英単語”Take care”が南仏訛りで「てっかー」と聞こえたため、他の生徒さんから「いつも最後に言う“てっかー“って何ですか?あいづち?ポケモンみたい」と聞かれたりもした。 最後の演奏会後、「エコール・ノルマル(パリにある音楽院)とか通う時間ないのか」「9月からスコラ・カントロム(パリにある音楽院)で教えるから良かったら私のクラスに入らないか。生徒が少なかったら週一で教えてあげてもいい」など、もっとピアノの腕を磨くべきだと、ありがたい気遣いを頂いた。私が音楽留学生であったなら、このようなお話は逃すべきではない程の大チャンスであっただろうが、既にこの後ボストンに移ることが決まっており、この夏を最後に当面はピアノから遠ざかる予定だったため、大変残念ながらこの有り難いチャンスは断らざるを得なかった。
 スコラ・カントロムはキュリー研から徒歩10分の近所にある。この話を去年受けていれば、きっと仕事帰りにスコラ・カントロムに通っていたかもしれない。
 極めて濃密な講習会であったため、講習会が終わった後もしばらくは、タッキーノ先生が来ていた青・紫系のシャツをきている男性を見る度にタッキーノ先生にみえてしまう程であった。人生最後のピアノレッスンだったかもしれないことを思うと、偉大な音楽家であるにも関わらず、個人的にも今後つながりを持ち続けることになるであろう、ピアノ人生の最後を締めくくるのにふさわしい先生だった。
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