2008年7月29~8月4日ニース音楽アカデミー2週目

2008年7月29~8月4日ニース音楽アカデミー2週目

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フィリップ・アントルモンのクラスが始まった。戦後にアメリカで大ブレークした歴史的大ピアニストで、マルグリッド・ロン最後の弟子の一人である。
 アントルモンなるピアニストの名前については、もはや歴史的大ピアニストという印象が強く、この講習会に申し込む際、講師リストで彼の名前を見た時、まだ彼が生きていたこと、また指導者として現役であったことに驚いてしまった程だった。フランスのピアノ界に、アルフレット・コルトーやピエール・サンカン(ギャルドン先生や岩崎セツ子氏の先生)が外国、特にドイツ系ピアニズムの奏法を、前者は主に演奏者として、後者は主に指導者として、フランス系ピアニズムと融合して広める前の、19世紀から続くフランスの伝統的な「真珠のネックレス」と呼ばれるピアニズムの大家の最後の生き残りだと、素人の知見ながら私は認識している。この講習会の直後、オリンピックで演奏するために北京に向かったことからも窺い知れる通り、現在もなお世界を代表するピアニストの一人である。
 彼のクラスは終始英語で行われた。生徒は、レイフ・オヴェ・アンスネス(ノルウェーの国民的大ピアニスト)に師事することが決まっていたノルウェー人、ポーランドから母親と共に来ていた少女、香港人生まれのアメリカ人に、日本人4人だった。この時、付き人兼生徒として参加していた、既に華々しい演奏活動を始めていた才能あふれるピアニスト、戸室玄氏と出会った。初めにフランス語が分かる人はいるかと生徒に向かって問い、日本人男子3人が挙手した時、”Bravo Japonais !”(日本人ブラボー!)と満足げに言い放った。
 一方で彼の人間性については、フランス人芸術家ののんきで自由な面がもろに言動に表に現れるタイプであり、終始生徒や関係者を困らせることが多かった。この講習会でも、彼が音楽院に現れたのはその週が始まって2日目だった。初日、まず生徒が全員集められ、「何か1曲ずつ弾くように。あまり長い曲にしないように。」との指示で、生徒がいきなり何の準備もできない状況で一曲ずつ演奏させられた。彼のクラスを受講するたけの準備と心構えのない生徒を断るためのテストだったのだろう。ヨーロッパのハイレベルな講習会では、クラスの始まる前にオーディションがあり、受講する生徒を選抜するのが通例である。高校時代に鹿児島で、鹿児島音楽界の重鎮であったラ・サール高校の音楽教師に突然呼び出され、音楽家数名が聴く中で演奏させられた時、呼び出した張本人が緊張してあがってしまうこういう場面の事を「おあがり会」だといったことを思い出したが、居並ぶ面々、そのシチュエーションはけた違いの「おあがり会」だった。その時は、迷った末にプーランクの即興曲から1曲を弾いた。一人ひとりに先生が比較的優しい言葉をかけ、「褒めるのは今日だけだぞ。」と言い残し、その日はそれで終了した。私のピアノに対しては「多様な音色が美しい」とリップサービスを頂いたが、それに喜ぶ余裕などなかった。初日のクラスが終わると同時に練習室に直行した。この時同席していた戸室玄君が、後日パリの日仏会館でプーランクの同じ曲を、高い品格と美しい音色で聴かせてくれた後、この曲を選んだのはニースで私が弾いたのを聞いて弾きたくなったからだと言ってくれた時は、さすがに素直に嬉しさを抑えられなかった。
 アントルモン先生本人の演奏会があったので、翌日もお休みとなった。レッスンは後半の4日間に連続で行われた。通常、講習会でのレッスンは、自分の番だけレッスンに室でレッスンを受け、聴きたい他の生徒のレッスンを聴講する以外は自由時間であり、主に練習にその時間をあてるのである。しかし、アントルモン先生のクラスは全く異なる形式をとっていた。レッスンは先生の都合(気分?)で毎朝10時集合。生徒は全員聴講を義務づけられた。レッスン初日に、準備した曲を紙に書いて提出させられ、「今はショパンを聴きたい気分だから次は君がこれ弾け。」という感じでレッスンの順番が決まっていくので、必然的にずっとその場にいないといけない。いつ自分のどの曲のレッスンになるかわからないので、聴講中も常に気が抜けなく、皆ずっと緊張を強いられていた。暗譜(楽譜を見ずに弾けるよう曲を覚えてくること)していない場合は「知らない曲を持ってくるな」と降ろされるので、いつでもどの曲も直ちに暗譜で弾けなければならない。まるでロシアンルーレットのような緊張感である。クラスで唯一人のアマチュアであった私にとってはなおさら恐怖だった。
私はこのクラスで、プーランク、ショパン、モーツァルトの楽曲を用意し、指導を受けた。クラスメイトだった優秀な若手ピアニストたちのレッスンの聴講は大変勉強になり、巨匠が後世に伝えたいと思われる、失われかけている古き良き時代の価値観や、派手さや見栄えが優先される現代ではしばしば見落とされがちなピアノ演奏の本質を、少なからず学ぶことができた。
 その時先生が我々に教授された美意識、価値観、言葉は、今後ピアノを弾かなくなっても、人生の糧となって一生ついてまわるだろう。「技術的な問題があればかならず指と鍵盤との距離が離れていないかを疑え。鍵盤の上でない所でのどんな動きも無駄である」「現代のピアノは高音部がキンキン鳴るので、その音域での音量は控えろ」「フランス人ピアニストに習うときはフランスの作曲家による楽曲を必ずプログラムに入れること」は、どの生徒に対しても同じことを繰り返し述べられていた。
 音楽家としての偉大さに比べ、個人としては気難しい、というより、大物であるのでしかたないのであるが、相当な気分屋で、常に自分勝手な振る舞いをしていた。ある日は突然「今日はビーチにいくので午後はなし。また明日」など。フランス人ならでは、といっては少々語弊があるかもしれないが、レッスンは愛人同伴だった。もちろん、二人ともそれぞれ妻と夫がいるわけである。その老人カップルがいちゃつきながら、ピアノを弾く生徒をわき目にレッスンを進めるのである。また、時折フランス語のわからない女性の生徒に対し、フランス語で卑猥な言葉を発し、一人で喜んでいる様子と、その言葉を解してしまった時の息苦しさは、少なくともこのような状況では二度と体験することがないだろう。

 最終日、全員のレッスンが終わり、いよいよ別れが近づいた頃、ちょうど50年前に先生がサン・サーンスのピアノ協奏曲第4番第2楽章弾いている米国テレビ放送の動画を、持参していたノートパソコンで見せたところ、「これは1958年だ」と即答された。半世紀も前に、これほどの華々しいキャリアを積まれた方である。マルグリッド・ロンに師事していた(ものすごく怖かったと、インタビューで回想していたのを読んだことがある)のは戦前のことである。彼はまさに歴史的な大音楽家であり、彼と1週間を共に過ごせたこと、彼から直接様々な学びを得る機会を得たことのありがたみを再認識させられた。