2008年7月2日ショパン@オランジェリー

2008年7月2日ショパン@オランジェリー

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 今春から再びキュリーに戻っていた。前回パリを去った後、東京で1年数カ月を過ごし、その間に博士号審査なる儀式を済ませていた。そのため、研究者としては特段何かが変わったという実感はなかったが、今回は「博士」の称号を得ての渡欧だった。ほんの1,2年前までは、博士課程終了後は、米国系コンサルティング会社に新卒入社するか、米国ボストンに渡るかを想定していたが、この頃は何の迷いもなく、再度キュリー研に戻っていた。
 第一の目的は、前回の滞在で仕上げきれなかった仕事を完遂し、論文にまとめるためである。前回の滞在で特に目立った成果を出さず、無難に過ごして帰国していたら、想定通りビジネス界へ転職か米国に渡るかの二択だっただろう。幸か不幸か、フランスに戻らなければならない研究者としての事情があり、それを放り出して人生ゲームの駒を出世する、又はよい待遇を享受できる方向に進めることに目が向いていなかったのである。この時の私の選択に対し、その研究者根性を評価するか、キャリアを止める「賢くない」選択としてみるか、周りの反応は人それぞれだった。今思い返せば、大半の関係者は後者だったように思われるが、私はこの選択を生涯後悔することはないだろう。
 今回の住まいも、はじめの1カ月間は国際大学都市(Cité Internationale Universitaire de Paris)に滞在しながら、楽器の弾ける部屋をパリ市内に探した。今回は指揮者の小沢征爾氏も住んでいたフランコ=ブリタニック館(イギリス館)に入っていた。


 この日の夕方、ギャルドン先生門下の友人とショパンの連続演奏会”Chopin en miroir, avec un Hommage aux jardins de Bagatelle”シリーズのマルク=アンドレ・アムラン氏の演奏会を聴くため、ブローニュの森にあるバガテル公園のオランジェリー庭園にむかった。このシリーズでは、世界的なピアニスト達がそれぞれショパンの作品を含んだプログラムでリサイタルを行っていて、先月が当演奏会シリーズのギャルドン先生の演奏会があったため、門下生一同で応援に行ったばかりだった。アムラン氏の次は広瀬悦子氏。
 アムラン氏の演奏を聴くのもお会いしたのも8年ぶりだった。髪もかなり薄くなっていて、初めにステージに現れた際は別人かと思ってしまったほどだった。東京で一緒に餃子を食べたりしたのは何と10年前である。よく考えれば10年で彼と同じだけ自分も年を取ったのだ。
 アムラン氏の人間業とは思えない超絶技巧はまだまだ健在で、19世紀フランスの作曲家、シャルル=ヴァランタン・アルカン作曲の難曲を物凄い速度で完璧に弾き切った。息つく暇もないその圧倒的な演奏を、ステージ脇のピアニストのほんの2メートル程しか離れていない至近距離で聴くという、滅多にできない体験をすることができた。まだピアノをちゃんと学んでいなかった10年前に聴いた時と、まがりなりにも専門家に混ざって多少は本物を学んでから聴いたその時の感想、印象は全く違った。以前は彼の驚愕すべき技術や表面上の表現を楽しんでいたが、この時は彼のピアニストとしての現代における立ち位置や本当の意味での演奏スタイル、演奏中の好調・不調も伝わってきて、ピアノを弾くターミネーターのようなイメージだった彼も人間なのだと、ある種の親しみを感じた。
 終演後に挨拶に訪れ、彼の大ファンであった親友と一緒に写真を撮ってもらった。アムラン氏と出会ったのは、ジェフスキさんと出会った頃とほぼ同じ時期、大学に入学・上京して初めての冬のことだった。その頃、ジェフスキ氏を最も有名な現代音楽作曲家の一人となるに至らしめた名作「不屈の民」変奏曲を、アムラン氏がレコーディング・リリースしたばかりだった。その新しいアムラン氏によるCDについて、ジェフスキさんがそのCDを指さしながら「彼は私よりも上手に弾いている」と述べたことを、東京の居酒屋でアムラン氏に伝えたところ、「彼が誰よりもそれを知っているだろう」と笑って返したのを覚えている。この二人の巨匠はまだ直接の面識はなかったそうだ。彼のフランス語を聞いたのはこの時が初めてだった。10年前にはアムラン氏が、ジェフスキさんのフランス語が変だといってからかっていたのに、彼のフランス語もアクセントがかなりフランス本国のそれとは違っていた。ケベックのフランス語なまりなのか。