2009年04月22日「死の勝利」@ピサ

2009年04月22日「死の勝利」@ピサ

未分類


 一ヶ月近く、ひたすら実験をしていたので、休養もかねて週末イタリアのピサに行ってきた。ちょうどその頃、キュリー研の研究室に、ピサ大学の学生がインターン生として来ていたので、とても身近に感じていた。ピサと言えば、なんといっても「斜塔」で有名である。

 私の場合、一番の目的は、いつかは訪れてみたいと思っていたカンポサント教会(墓地?)にあるフレスコ画「死の勝利」。14世紀の画家、ブルナミーコ・ブファルマッコの作品とされる。27歳のリストがここを訪れ、このフレスコ画を見て得たインスピレーションからピアノとオーケストラのための作品、「死の舞踏」を作曲した。生まれて初めて買ったCD「リスト:ピアノ協奏曲、他 シフラ」にこの曲が入っていた。当時「協奏曲」が何なのかもさっぱりわからず、「ピアノ」しか意味がわからず、とりあえずピアノ音楽のCDを買ってみようと思いたち、「ピアノ」の文字だけからこのCDを手にとって購入してみただけという偶然が、この楽曲と、ジョルジ・シフラという希代のピアニストとの出会いだった。それでも、当時まだクラシック音楽にそこまで縁のなかった私が、「シフラ」がピアニストの名前だということを認識するまでには数年の歳月が必要だった。
 その後、20代でピアノを再開し、かなりのピアノ音楽通になっていた私にとっても、死の恐怖が生々しく伝わってくるこの楽曲は、最も大切な思い出の曲の一つであり、シフラというピアニストは、最も敬愛、尊敬するピアニストの一人であり続けた。私が東京大学を受験した際も、このCDを持参し、試験開始直前にリラックスするため、CDウォークマンでこのシフラによる「死の舞踏」を聴いてコンディションを平時に近づけ、試験に臨んだ。おそらくこの曲、シフラによるこの名演は、今後も私の人生にとってかけがえのない音楽の一つであり続けるだろう。 
 このように、「死の舞踏」は大変思い入れの深い曲だったので、一度はそのインスピレーションの源泉となった、このフレスコ画の現物を、現地で見てみたいと思いだしてから10年以上が経過していただろうか。
 感激の対面だった。「死の舞踏」から連想される中世ヨーロッパン人の生死感が生々しく伝わってきた。全ての人に訪れる死の圧倒的な存在と、それに対抗する人々のむなしい抵抗という主題が描かれている。この作品に骸骨の姿で表現された死の象徴が、王であれ庶民であれ、身分を問わず全ての人々を蹂躙している。その一方、右上には天使達により地上の地獄から助け出される者もいる。それは死から逃れた者なのか、それとも天国へ行く者なのか。フリューゲルによって表現された、何人も逃れることのできない「死」の圧倒的な存在が伝わってきた。またその壮絶な情景とリストの音楽が重なり、この絵画とリストが出会わなければ、あの音楽が生まれなかったことを考えると、およそ170年前、ここでリストとこの壁画が出会った歴史的瞬間に思いを馳せずにはいられなかった。
 リストがここを訪れてこの壁画と対面した時は27歳。私はこの時28歳だった。ほぼ同じ年齢、それなりの人生経験と素地が出来上がり、かつもっとも感性豊かなこの年代で、お互いこの壁画に対面したことになる。その時リストは何を思い、感じたのか。この対面は、私の青年期における最も重要な原点回帰ともいえる体験だった。
 翌日、有名な斜塔を眺めるカフェで、執筆中の論文を仕上げた。普段私はプライベートの旅行先で仕事をすることは稀だが、ちょうど最終チェックをするべき原稿締め切りが迫っていたこと、またその仕事量が少なかったこともあり、旅行先で原稿の最終校正を行った。その光景を思い浮かべると、なんとも優雅な情景である。根を詰めて行うべき仕事は、旅先で行うことはまずないが、リラックスしながら行える軽い仕事や、次の仕事の構想を練る場合は、日常から離れた旅行先で行うのも悪くはない。
 翌日、ピサ市街でベルトを購入した。その店の主が、イタリアの大指揮者リッカルド・ムーティがここで燕尾服を一式仕立てたことを、誇らしげに語っていた。その晩、飛行機でパリに帰宅した。日本でいう国内旅行の感覚で、ヨーロッパ各地を気軽に、格安で立ち寄ることができるのも、ヨーロッパに住む魅力の一つである。