6月6日小さなソナタ

6月6日小さなソナタ

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 キュリー研宛てに、めずらしく大きめの封筒が郵送されてきた。送り主はフレデリック・ジェフスキ。最近彼とは何もコンタクトをとっていなかったが、中身が何であるか、手に取る前に直感でわかった。またその封筒の薄さに少し安堵した。開封すると3枚の五線紙が入っていて、冒頭には”NANO SONATA” Frederic Rzewski for Hideyuki Arata (May 2006)。後になって振り返ると、人生で最も光栄な出来事の一つであってもおかしくなかったが、なぜか全く興奮もせず、とりあえずコピーをとっておき、また仕事に戻って深夜まで淡々と実験を続けた。
 先日、私が3年かけて完成させた研究を凝縮した3ページの論文が米国の学会誌から発表され、知の師匠ともいえる旧友のジェフスキ氏に献呈した。その研究の実験映像をブリュッセルのジェフスキ氏宅で見せた時のインスピレーションを基に作曲した、たった3ページのピアノソナタだった。おそらく3時間程度の短い時間で即興的に書きあげたのだろう。彼の2番目のソナタである(1番目は1時間くらいの大曲)。数年後、オフィシャルな告知で「Hideyukiに、テクニック的にはある程度挑戦的で、しかし練習にそれ程時間のかからない曲を書こうと思った。」と発言していたことが分かった。過去に何度もピアノを弾きあった仲であり、私の演奏技術の未熟さと仕事の多忙ぶりをご存知の上での、何とも親切で教育的な配慮であろう。

 仕事が忙しかったこと、ピアニストの先生方とは勉強中の他の曲で手いっぱいであったこと、曲の難易度が高かったことや、大作曲家が自分のために書いてくれた曲を弾くことの重圧に、しばらくは譜読みを始められなかった。日本に帰国後、本格的に練習を始め、2007年秋にアマチュアの演奏会で、トム・ジョンソン氏の「パスカルの三角形」と共に、初演することになった。個人的には仲良くしていた旧友からの素敵な贈り物に当然嬉しく、作曲者への感謝の念でいっぱいであったが、その作曲者がジェフスキ氏であったことから、この時から私は「ジェフスキ氏にインスピレーションを与えてナノソナタを作曲するに至らしめた科学者」として、科学史ではなく音楽史に少なからず名を残すことになった。